2001年8月17日 金曜日 読売新聞 埼玉 県西版
今年5月20日、川口市内で開かれたクラシックのリサイタルで、アンコール曲の演奏中に聴衆から大きな拍手がわき起こった。 ロックやジャズではよくある曲の途中での拍手も、クラシックでは異例のこと。 メインパートを奏でていたフルートの音色に、感極まった聴衆が自然に手をたたいてしまったものだった。 聴衆の喝さいを浴びたのは、川越市三光町の綱川泰典さん(25)。国内初の全盲のプロのフルート奏者だ。 演奏中の拍手は、自身も初めての経験。演奏者として聴衆との一体感をこれほどまでに感じたことはなかった。 「目が見えなくてもがんばっていますね、というような同情の拍手ではなかった。フルートをやっていてよかった」 三歳で網膜色素変性症を患い、子供のころにぼんやりと見えていた視力が、高校生の時に急速に失われ、光を感じるのがやっととなった。 「どうして目がみえないの。生まれてこなかったほうがよかった」と絶望感に苦しんだ。歩く時に必要になった白いつえを、「周りがどう見るか」と恥ずかしかった。 心の支えは、小学生から続けてきたフルートだった。つらいとき、悲しい気持ちを音楽に託した。 「感情をフルートの音に込めると、演奏し終えた時にふっきれ、穏やかな気持ちになるんです。フルートが今の自分を作ってくれました」 しかし、壁も多かった。 武蔵野音大に通っていたとき、「この世界は、君には無理じゃないか」と、教員から言われた。 楽譜は、ボランティアに点訳してもらい、一文字一文字たどっていかなければならない。譜面を見ながらの演奏もできない。オーケストラで指揮者のタクトは見えないし、アンサンブルでほかの奏者と呼吸を合わせるのも難しい。 しかし、綱川さんは課題曲すべてを死に物狂いで暗記。合奏の際は、ほかの奏者たちの呼吸や体の動きを肌で感じて、音を合わせた。 「譜面があるとそれを見ることに気を取られて、機械的に再現するような演奏になってしまう側面もある。曲をすべて暗記したことで、譜面の中に込められた心情をよりくみ取ったり、表現できるようになった」 川のせせらぎ、森のざわめき、すがすがしい空気、風の心地よさ・・・。頭の中でイメージを膨らませながら、人の心に語りかけるように奏でる。思い描く映像は、川遊びなどをした子どものころの記憶が頼りだ。 今、綱川さんは、来月7日に都内で開催するコンサートの練習に励んでいる。 「目が見えなくなったことイコール不幸ではない。他人への感謝の気持ちや心の豊かさなど、障害がなければ見過ごしたかもしれないことも、きっとあったはず。すべてを引き受けながら、喜怒哀楽をフルートに託し、これからも自分らしい音を伝えていきたい」
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